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Que sera sera Diary

「アラフォー・ダイエット・ストレッチ・食事改善・精神病」の奮闘…徒然日記

捜索by東日本大震災

こんばんは、かえるのじゅです(o∀n)

それからケーユーの実家にいながら、妹の娘、ケーユーの姪っ子を捜索する日々が始まる。

もしかして重症を負っててどこかに運び込まれたかもしれない。
もしかして、誰かがかくまってくれてるかもしれない。

ケーユーの妹は着替えと飲み物とお菓子を持って、日々、避難所巡りを歩いてした。

1人にはしておけないと、ケーユーは付いていく。
ケーユーの実家でどう動いたらいいかわからない私は
「1人にしないで」
と役立たずなのに着いて歩く。

近場の小学校に昨日になって保護されたかもと寄って歩く。

ひと山越えようとしてた。その先、下山したところにも避難所があるからと。
足が棒だった。履きなれない靴を履いて、冬場なのに汗かいて。
寒い3月なのを妹は語る。

「寒い方が遺体がいたまなくていい」

と。

山を下山して行こうとしたとき、ラジオから聞こえて来る。

放射能の雨が降ります!」

本当かなんてわからなかった。

くたくただった私は正直助けられた。

最低限の水しか飲まず、トイレにもいつ行けるかわからない。

周りはみんな便秘してたのに私だけ下痢。

始末に困る。

震災当時、海側だったケーユーの家は、橋に守られたのか、立地的に良かったのか。
床上にもならない全壊地域。

定食屋を営んでいた夫婦がケーユーの家にくる。
冷凍庫にあったからと、カニを煮たり、石油ストーブの上で土鍋でご飯を炊いたり。

食べ物に困ってなかったけど、食欲はなかった。

ケーユーの知り合いの家は近くに酒屋があって、流れ着いたものが全部酒で、水の代わりに酒を飲んでた。

何かにつけてケーユーは酒を飲みに(なにかを土産にしながら)
行ってた。
酒を飲んでた人の家の屋根の上には1台車が乗っていた。
煮炊きするのに、柱1本丸々と根っこから燃やしてた。

私の実家は天井スレスレまで津波が来た。
父と母は始めは車で逃げた。

波がくるぞー!!

どっちとも耳が遠い2人にかすかに聞こえた声。

持つもの持って、車を捨て山の根っこまで行った。

車は500m以上流されて田んぼの真ん中に車同士積み上げられてた。

ケーユーの妹が見てられなくて、ある夜

私「これ飲むと少しは楽に眠れるよ(ソラナックス)」
妹「そんなんに頼らないから!!」

私は私なりにストレスが溜まってく。

妹は2人子供がいて、当時3歳前ぐらいだった下の子は、
救助されたボートをよく覚えてて、拙いながらにオールを漕ぐ真似をしてた。まだしゃべれない。

ケーユーの母の理事長と逃げた孫も水難にあった。
肩まできてる水に孫をつけないように、ばあばは腕をシャンと伸ばしてマンションの階段まで逃げた。
寒くて寒くて、マンションの住人に貸してもらう衣服は全て孫に与えて、濡れてる自分は我慢した。

私とケーユーが住む部屋から食べれるもの、使えるものを全て運び出した。
一切合切なくなった。
私は着替えさえ言い出せなかったから、自分のものを用意しようとした時に

妹「自分のものはいいがら!!早くして!!」

と言われて無理やり1日分の自分のものを持ち帰った。

痩せ細って避難所にいる父と母のところにいった。
一晩寝かせてもらった。
しばらくいた。
家のものを片付ける時、食器洗い機もゴロゴロ転がして捨てた。
お父さんは濡れてないはずの神棚まで捨てた。

「神様なんていねー」

って。

自分のことを二の次にしてた私は自分の子供のことを想った。

無事だった。小学校に1泊だけしたけど、戻ってきたと。

もし私と住んでたら多分どっちか死んでた。

後に見に行ったら、築年数の古い家は天井が落ちて窓ガラスが、割れてた。

新しい家が突っ込んでた。

しばらくして、遺体安置所をまさかなって思いながら見に行った。

ケーユーの姪っ子のひらがなだけど名前があった。

当時は子と付ける子供はいなかった。

違うかもしれないしって遺体が移動されているところに行った。

顔を2人で見た。

ケーユー「姪っ子だ…」

私にはわからないぐらい顔が腫れ上がってた。

遺体は沢山見た。

偶然誰かに情報を聞いたケーユーの妹とお母さんが来た。

妹「ごめんなぁ、ごめんなぁ、ママ見つけたからなぁ」

と言って裸の娘に服を着せた。

その子もパパも今でも年を取り続けている
m(*_ _)m